特に、音は立てなかったと思う。
だが。
「……迢?」
思いがけず声を掛けられ一瞬戸惑ったが、相手は鴇慈。
ある意味いつもの事である。
自分の行動なんて、いつだってお見通しだ。
「具合はどうだ?」
先程琥香が座っていた椅子に腰掛けて、迢が問う。
「もう、平気だろ。でも、無理をするとお前達が怒るからって琥香が」
「正しい判断だな」
布団の中に潜ってしまっているので見えないが、もしかしたら口を尖らせているかもしれない。
そんな事をしている所は見た事がないけれど、そういう想像をさせられるような子供っぽさがあるのが彼である。
「……なぁ」
「何だ?」
「喉、渇いた」
「………」
普段こういった類の我が侭は絶対に言わない彼の言葉に、迢は黙って席を立った。
寮には、部屋ごとに小さなキッチンのような物がついており、冷蔵庫もある。
それを開くと、水が入ったボトルが一本だけ入っていた。
――意外だな。
迢の部屋の冷蔵庫でさえ、数種類の飲み物と少々の食料が入っているのだが、ココまで何も無いとは。
「水しか無いが、コレで良いのか?」
もぞもぞ。
布団の動きからして恐らく頷いたのであろうと判断し、コップに注ぐ。
そしてベッドまで戻ってくると、布団から催促の手が出ていた。
「…布団が濡れるだろう。飲む時だけでも起き上がれ」
するとしぶしぶというように、赤い髪が出て来る。
「ほら」
コップを手渡すと、余程喉が渇いていたのか一気に飲み干した。
「ありがとう」
返されるコップを受け取りながら聞こえた言葉に、迢は一瞬耳を疑いかけた。
礼を全く言わないほど無礼な男ではない。
が、これほどはっきりストレートに『ありがとう』という男でもない。
思わず手が、鴇慈の額に伸びていた。
「…何だ、いきなり」
「ああ、いや、ちょっとな」
『ありがとう』なんて言うからまだ熱が高いのかと思って、とは流石に言えない。
「熱は下がったみたいだな」
とりあえず言い繕う。
「まあ元々、病気とかで体の調子が悪いわけじゃないからな」
その言葉を聞いて、迢の顔が曇る。
彼がこの時期決まって倒れるのは、確かに病気でなく精神的なものなのだ。
「…鴇慈」
「ん?」
「忘れろなんて言わない。でも、そろそろ良いんじゃないか?」
何が、なんていう返事が来るはずはない。
迢が何を言いたいのか、鴇慈はよく知っている。
「おじさんだって、おばさんだって、きっとそう思ってる」
「……多分、そうだろうな」
溜め息をついて天井を見る鴇慈に、いつものような余裕は見えなかった。
「でも、なかなか上手くいかないんだよ」