「…おや?」
静まりかえる三人の様子に気付いたのか、男はゆっくりと右手を下ろした。
「……えーと……」
ボサボサの頭をかいて、さらにボサボサに。
そのまま照れたような笑みを浮かべながら、こそこそと先ほどの男の隣に座る。
「こ、こんにちは?」
微妙に疑問系。
微妙に挙動不審気味。
「…こんにちは」
どうしようかと思ったが、知鎧はとりあえず挨拶を返しておく。
――さらにわからないのが来たなぁ…。
そんな事を思いながら。
すると男は、ニコニコしながら知鎧を見た。
「天岾医院で研修したいなんて奇特だねー」
思わぬ事を言われて少々面食らう。
「そうですか?」
知鎧の反応を窺いつつ、男はうんうんと頷いた。
「外にはあまりそういう噂が流れないかな。院長が変わってるから研修も変わってるってよく言われるんだ」
その言葉に、知鎧は首を捻る。
「天岾医院って、研修受け付けてないんじゃないんですか?」
「基本的にはね。面倒だから。でも今年からは、とりあえず任せられる人間が出来たし」
そして男がチラリと横に視線を向けた。
「実践一年積んだし、もう大丈夫だよね――櫻己」
――…櫻己?やっぱり正さんじゃないよなぁ。
知鎧は一人納得する。
櫻己と呼ばれた先ほどの男は、深い溜め息を吐いた。
「自分は『面倒』の一言で片付けていた癖に、俺にはやれと?」
「お父さんも若い頃は一応研修受け付けたんだよ?でもやっぱり面倒でやめちゃった」
――お父さん?
写真の面影がある若い男のお父さん。
天岾医院での研修を、誰かに任せるとか言える権限のある男。
同じく、奇特とか平気で人前で言ってしまえる立場の男。
裡菜に、『おじさんに会いに来てくれた』と言った男。
一つ一つ遡り、脳内検証し、導き出される結論はただ一つ。
「え、天岾…正さん…?」
少々顔を引きつらせながら言った知鎧に、男はきょとんとした顔を向けた。
「あれ?名前言わなかったっけ?あーごめんごめん。そうそう、天岾正。変わってる院長その人だよー」
「…っ!」
ヒラヒラと両手を振る様がまた楽しげ。
名前を言わなかったどころか、突然飛び込んできてさらりと話を切り出して来た事には気付いていないようだ。
何だか今日は言葉を失うような事ばかりである。
まさか、世界にその名を知られた名医がこんなボサボサ頭で軽いノリ、しかも面倒臭がりな男とは。
――奥さんのイメージが飛ぶというより、本人に対するイメージがぶっ飛んだ…。
裡菜に目をやると、こちらを面白そうに見ていた。
「何か、変だった?いや、変わってるとはよく言われるんだけどねー」
あはははーと笑う正に、知鎧は言葉を探す。
――まさか『わからないのが来た』と思ったなんて言えねぇだろ…!
「いえ、その、写真とかで見てたイメージと違うな…って…」
すると正は一瞬目を見開いた後、声を出して大笑いした。
「あんなの信じちゃ駄目駄目!一応公式の場だからって事で見た目だけ作ってるから」
「言ってる事は変わってないんだがな」
息子のツッコミがボソリと入る。
「医療研究の発表会なんて必要な部分しか諸所に載らないからね。あー、君も騙されちゃったクチかー」
正は笑い続けながら立ち上がり、後ろの棚から何やら紙を取り出した。
「現実なんてこんなものだよ。さあ、これ読んで櫻己」
その紙を見た途端、櫻己の顔色が変わる。
「コレは…!」
櫻己が驚くのを待ってましたと言わんばかりに、正は嬉しそうな顔をした。
「そっちは任せるから、頑張るんだよ、櫻己」
さて、何が書いてあるかというと。
『萬という街に一つ、天岾医院の小さな出張所が出来ますよ。
出張所なので、院長なんていう大層な肩書きはつけないけど、責任者は天岾櫻己でよろしく』
本人の口調そのままの軽い文章だけれど、読んだ方はビックリ。
「流石にこんな話は聞いていなかったが」
戸惑う櫻己に、正はニコニコするばかり。
「うちから何人かスタッフが行くし、研修生とはいえ裡菜ちゃん達も入るから大丈夫だよね?」
じっと父親の顔を見つめた後、諦めの入った表情で櫻己が頷く。
「大丈夫、と答えなければいけないのだろう?」
「はい、よくできました」
ポンポンと、自分の前で手を二回叩き満足気に頷くと、今度は知鎧と裡菜の方を見た。
「というわけで、君達は天岾医院の出張所で研修をしてもらうという事で。至らない息子だけどよろしくね」