たなる生活を求めて踏み出した新天地。
それは良いが先ずは住居を決めなければならない。
そういうわけで男は、何処か自分の求める条件に合う所を探した。
やはり交通の便が良い所。
五月蝿くない所。
そしてなるべく綺麗で、なるべく家賃が高過ぎず、大家が気の合う人なら尚更良い。
辺りの空き部屋を一つ一つ周って見て殆どの条件を満たす所が一つ。
木造三階建ての古い小さなアパートだが、決して汚くない。
近くにバスも通っていて、駅からも遠くない。
そして何より家賃が安い。
いや、安過ぎる。
大家と気が合えばすぐにでも住みたい所だが、何分不安を覚える程に安いのだ。
これは何かあるのかもしれないと、男はとりあえずそこを訪ねた。
明るい茶色の扉にノックする。
「すみません。空き部屋があると聞いて。是非とも見せて頂きたいのですが」
すると扉を開けて、穏やかそうな老婆が姿を見せた。
どうやら彼女が大家らしい。
「はいはい、いらっしゃい。空いてるのは二階の真ん中の部屋ですよ」
そう言ってジャラジャラと鍵を鳴らしながら階段を上る。
男は周りをよく観察しながら後に続いた。
やはり古いが手入れは行き届いている。
廊下などもしっかりとした造りで、ミシリという音もしない。
手摺もちゃんとついており、落下の危険も少ないだろう。
大家が見せてくれた部屋も、確かに広くないがきちんとした部屋だ。
それで風呂もトイレも付いているというのに、何故こんなにも安いのだろう。
「あの」
思わず男は大家に尋ねる。
「こんなにもきちんとした所が、何故こんなにも安いのですか。失礼ながら、何か曰くのある部屋とか」
すると大家は、そう思うのも仕方ないと言う顔で笑った。
「いえね、何せ家族の無い身ですから。
まだ仕事に慣れないような若い人達が、無理の無い家賃で此処に住んで下されば、賑やかになってこちらとしても楽しいかと思いまして。
お祖母ちゃんのように接してあげるのが唯一の楽しみなんですよ」
つまりは、アパートの住人を家族としてこの大家は見ているという事だ。
男はそういうのは嫌いではなかった。
しかしそれにしてもこの安さは…としばらく考え込んでいると、大家はポンと手を叩いて言った。
「そんなにも不安なのでしたら、しばらく試しに住んでみますか。
もしも何か不満があれば、家賃を払わず、他の所に住み替えて下さって結構ですし」
ふむ、それではせっかくなのでその好意に甘えて、と、男は試しに数日その部屋を使ってみる事にした。
大家の考えも、条件も悪くない所だ。
曰くがあったとしても、――例えば幽霊が出るなどという噂とか――自分に害の無いものであれば気にしなければ良いのであるし。
大した荷物もないから、どうしても何かあった時に出て行くのも簡単だ。
そんな気楽な気持ちだった。

 日目は何も無く過ぎていった。
二日目も何も無く過ぎていった。
三日目も、四日目も何も無く過ぎていった。
隣人達は、何を言ってくるわけでもなく。
しかし外出した際顔を合わせれば会釈程度はしてくれる。
大家も最初に会った時のまま穏やかだ。
毎朝廊下やアパート前の掃除もしてくれて、初めて来た時の通りに綺麗である。
近所にはそれなりに店もあり、しかも良心的な値段で不自由は無い。
夜も朝も五月蝿くない。
そのまま、五日目も六日目も過ぎていった。
七日目の夜、男は、深く考えすぎだったかと思いながら電気を消し布団に潜った。
その時、ふと天井を見ると、カーテンを通した薄い月明かりの中に黒い小さな染みが見えた。
今まであんなものはあっただろうか。
だが、気にするような大きさのものでもないし、ただ目に入らなかっただけだろうと、男はそのまま眠りについた。
八日目、九日目と日にちを重ね、やはり此処に住む事にしようと思い、家賃をとりあえず半年分払い込んだその日、男は気付いた。
先日見つけた染みが、大きくなってはいないか。
初めて見た時には気にするのも馬鹿らしい大きさであったのに、今は人差し指と親指で作った輪程の大きさになっている。
何か染みになるような事をしたかといえば、何もしていない。
何せ、ついに始まった新しい仕事で昼間は外に出ているのだ。
そして夜帰ってきて食事をし、風呂へ入り寝るだけなのだ。
まさか自分が留守の間、誰かがこの染みを広げるような事をしているとでも言うのだろうか。
男はじっとその染みを見つめた。
しかし目の前で大きくなるなどという事はやはり無く、諦めて眠る事にした。
さて翌朝、染みはどうなっているだろうかと目を開くと、何も無かった。
首を捻りながら男は階段を下り、大家の所を尋ねた。
そして事の次第を話す。
「染み、ですか?」
「ええ…。
今朝になって見たら消えてしまっていたので、思い違いかもしれないのですが。
それとも真上の部屋の人が、何かなさっているとか」
ところが大家が言うには、男の真上の部屋には誰も住んでいないらしいのだ。
いや、正確に言えば、一人の男が借りており、家賃はしっかり数ヶ月分納めてくれたが、ある時から帰ってきていないのだと。
何かあった時の隠れ場所として、一部屋確保しているのだろうか。
確かに此処の家賃なら他の何処かを借りておくより、ずっと安上がりだとは思うが。
「まあ、特に害は無いので良いのですが。
ちょっと気になったものでとりあえずお話しておこうかと」
そして男は仕事へ行った。

 って来て天井を見上げても、染みは無い。
気のせいだったのかと、風呂へ入り、食事をし、さっさと寝る事にした。
電気を消し、横になる。
そして天井を見るとやはりあるのだ、染みが。
昨日よりも、大きくなった染みが。
男は慌てて起き上がり電気をつけた。
照らし出された天井に染みは無い。
幻覚なのかと目を擦り、今度は立ったままもう一度電気を消して天井を見て、男はぞっとした。
その薄暗さに慣れてきた目に、はっきりと見える染み。
黒いと思っていた染みは、よくよく見れば赤黒く、まるで乾いた血のようだった。
しかも先程見た時よりもさらにさらに大きくなっており、男の肩幅よりも大きな直径の円になっていた。
流石にこれは気のせいではないと、男は電気をつけぬままに扉の方へと向かった。
すると、ズズッと音がした。
嫌な予感がして見上げれば、思った通りの事になっている。
染みが、ついて来ていた。
さらに背筋が寒くなり、慌てて扉に手を掛けたとき、染みから同じ色の細い糸が一本垂れ下がってきた。
何故か触れてはいけないと思い、男はサッと身をかわしたが、その瞬間染みの全面から無数の糸が一気に垂れ下がり、ついには男を包んでしまった。
ゆっくり、ゆっくりとその糸が染みに戻っていった後、そこに男の姿は無かった。

 れ以来、その男の姿を見たものはいない。


 日も大家の所を一人の男が訪ねてきた。
「あの、部屋が空いていると聞いて」
「はいはい。空いているのは一階の真ん中の部屋ですよ」
そして数日後、その男が言うのだ。
「随分静かなんですね。うちの部屋の上にも、人が住んでいるんでしょう?」
ところが大家は、こう答える。
「いえね、実は二階と三階のお客さんは、家賃だけ払って下さって、ある時からぱったり姿を見せなくなって。
第二の家として確保なさってるんじゃないかと思っているのですが」
さらに数日後、男は少し心配そうな顔で言ってくる。
「あのう。何だか天井に染みができて、それがだんだん大きくなっている気がするんですけど」

 いには三階の部屋の住人との契約が切れ、また空き部屋ができた。
良い条件と格安のその部屋には、すぐに借り手がつく。
そして繰り返される会話。
いつから、そしていつまで。

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