いつもと違う夏の坂道は足取りが重い。
日差しも照り返しも強く暑い上、風が無いのに湿気が凄い。
――こんなに酷い暑さは、初めてだわ。
まあ、今湿気が凄いと感じるのは海岸沿いだからかもしれないが。
過ぎていく潮風は心地良いけれど…。
――日差しが強いからって長袖にしたのは失敗ね…。
有流(ゆな)はついに大きな鍔付きの帽子を脱ぎ、それで扇ぎ出した。
髪を結んでいる大きなリボンが揺れる。
すると。
「あーあー、『お嬢様』はそんな事しないぞ」
何処からともなく聞こえてきた声に、有流はビックリしながら辺りを見回した。
聞き覚えは有る。
けれど、今は聞こえてくるはずの無い声だった。

「光刀(こうとう)?」
少し坂を上った先に、見慣れた少年の姿を見つける。
「『お嬢様みたいになりたいわ』なんて言っておきながら、すぐそれなんだからな」
やれやれと肩をすくめる光刀に、有流はムッとした顔を向けた。
「余計なお世話!それより何でこんな所にいるのよ!」
「住んでる町の中にいて、何がおかしいって言うんだ」
「おじ様に聞いたわよ。アンタ、凄く遠い…何とかって国に留学したって」
それを聞いた光刀はガックリと肩を落とす。
「あのお喋り親父め。お前に全部言っちゃったのか」
有流は呆れた顔をした。
「おじ様はアンタと違って優しいもの。『どうせ何も言わずに行ってしまったのだろう』ってちゃんと教えて下さったわ」
「何の為に黙って行ったと思うんだ。後で驚かせてやるつもりだったのに」
「目的はともかく行く事くらいは言っていきなさいよ!」
「だってお前は怒ると思って」
「…あのね。黙って行くのとアンタが夢を追う事と、私がどっちに対して怒ると思う?」
「……両方」
一気に有流の眉毛が怒りの形に変わる。
「よくわかったわ!黙って夢を追って行っちゃったって事は、両方足した分だけ怒って良いって事ね!」
パッと走り去ろうとする有流の前に、慌てて飛び出す光刀。
「ちょっと待て、悪かった!悪かったよ、黙って行って」
光刀がようやく素直に謝ったので、一応有流は振り返ってあげる事にする。
「…で、その留学したはずのアンタが、どうしてこんな所にいるわけ?」
当然の疑問だったが、光刀はちょっと首を捻った後に頭を掻いた。
「えーとそれは…ちょっと色々あって」
「色々ねぇ…」
――コイツが途中で諦めて帰ってくるなんて思えないんだけど。
内心そう呟きながら、少し意地悪な事を言ってみる。
「何を目指してたか知らないけど、失敗しちゃったんだ?」
しかし光刀は黙ったまま、困ったような顔で笑うだけだった。
「言い返してこないなんて、どうしたのよ?」
光刀がいつもと違う様子なので不安になり、有流は彼の肩に手を伸ばす。
すると彼は慌てたように後ろに下がった。
「いや、失敗って言えば失敗なんだけど。普通の失敗じゃないって言うか」
あー、何て言ったら良いんだろうとブツブツ言いながら、光刀は俯く。
そんな様子を見て、有流は口元に手を当てる。
「……やっぱり失敗しちゃったの。ゴメンね」
光刀は、有流が本当に悪い事を言ったという顔をしたので、今度は慌てて顔を上げた。
「お前が悪いんじゃないんだ。だから、その」
また言葉に詰まる光刀に、有流は笑顔を向ける。
「仕方ないから、今日は何か奢ってあげるわ」
「え?」
「パーッと美味しいモノでも食べて、嫌な事を忘れちゃいましょうよ」
有流はとびきり明るくそう言ったが、光刀は首を横に振った。
「美味しいモノなんて奢らなくて良い」
「どうして?遠慮しないで良いのに」
「遠慮なんかしないさ。その代わり」
「その代わり?」
「今日は一日、俺と一緒にこの町巡りだ」
きょとんとした顔になった後、有流がはじけるように笑い出す。
今度は光刀がきょとんとする番だ。
「何だよ!いきなりどうしたんだよ!」
「だ、だって…いきなりこの町巡りって…!」
ほんの少しの間離れていたけど、生まれてきてからの殆どをこの町で過ごしてきて。
それは二人とも同じ事なのに。
「今更私とそんな事、一体どういう風の吹き回し?」
有流は、まだ収まらない笑いを必死で抑えながら光刀を見た。
すると彼は、とても真面目な顔でこちらを見ていた。
「この町巡り、してくれるか?」
顔と同じに真剣な言葉。
笑いがぴたりと止まり、思わず有流は頷いた。
「わかった。良いよ、それで光刀の気が済むなら」
小さなこの町には、見て回るような所がない。
そんな所に生まれた時から十数年住んでいるのだ。
会う人会う人知り合いで、顔を合わせる度に言葉を交わす。
「有流ちゃん、今日も暑いね」
「本当に。でも、今日はちょっと特別じゃない?」
「こんな暑い日にお出かけかい、有流ちゃん?」
「ええ、この町巡りをしているの」
「有流、日焼けするからあまり日向を歩きすぎない方が良いよ」
「今日は帽子があるし、長袖だから大丈夫」
気軽に声を掛けてくる近所のオジさんオバさんに、笑顔を返す有流。
光刀はニコニコしているものの、何も言わずに有流の隣を歩いている。
「…あのね、顔が笑ってるからまだ良いけど、声を掛けられても黙ってるってどうなのよ」
けれど光刀は笑ったままこう言うのだ。
「良いんだよ。皆お前に話しかけてるんだから」
確かに。
「…アンタ、昔から愛想悪いものね〜」
「悪かったな」
「違う所に行ってたんだし、挨拶くらいしておけば?」
「また今度な」
――ああ、そうだ。
「パーッと気分を変える為に町巡りをしてたのよね。そんな話題は避けないと」
「それを口に出しちゃう所がお前だよな」
「気遣いが下手な女で悪いわね。あ、ちょっと待って」
町巡りをしているうちに、気付けば有流の自宅の前である。
「喉渇いたでしょ。何か飲んでいかない?」
「お前だけ何か飲んで来いよ。俺、用事を思い出したから、その間にちょっと家に帰ってくる」
「そう?」
「ああ、すぐ戻ってくるから」
「わかった、じゃあまた後で」
ヒラヒラと手を振る光刀の姿に何か違和感を感じたが、それが何とははっきりわからなかったので気にしない事にした。
「お母さん、あのね、光刀が…」
扉を開けると同時にそう言ったけれど、家の中から返事は無い。
――珍しい。出かけてるのかな?
専業主婦で暑いのが大嫌いな有流の母親が、この季節のこんな時間に出かける事など滅多にないのだが。
――もうすぐ夕方だし、涼しくなると思ったのかな。
今日ほどの暑さは珍しいので、多分日が落ちてしまえばだいぶ楽になるだろう。
有流自身も、早く夕方になれば良いなと思っていた。
――まあでも、もうこれは良いか。
帽子を置きながら冷えた麦茶を一気に飲み干し、再び暑い外へ出ると光刀が待っていた。
「随分早かったのね」
近いとはいえ、光刀の家とここを往復しつつ用を済ませられるほどの時間を家の中で過ごしたつもりはなかったのだが。
「ああ、大した用じゃなかったし。お前はもう良いのか?」
「うん」
「じゃあ、町巡りの続きをしよう」
「でも、あの坂からうちまで来ちゃったのよ?もうこの町で巡る所なんかないじゃない」
有流の言葉に、光刀はう〜んと低く唸った。
「確かになぁ…」
「もう終わりにする?」
そう有流が尋ねると、光刀は首を横に振る。
「いや、戻ろう」
「何処へ?」
「海」
二人が会った坂道に辿り着いた頃にはもう日が傾いてきた。
暑さもだいぶ和らいでいる。
「あー、良かった!これなら夜はそんなに暑くなさそうね」
心底助かったという声で有流が言うので、光刀が思わず笑った。
「そんなに暑かったのか?」
「何言ってるの!今までにないってくらいの暑さで…」
と、そこまで言って有流は言葉を止めた。
「そういえば光刀、随分厚着ね」
今まで特に気にも留めていなかったが、まるで春の始まりの時のような服を着ている。
「暑くないの?」
「……お前だって長袖だろ」
「あんまり日差しが強い時は肌を出さない方が良いってお母さんが」
「じゃあ、俺もそういう事で」
「だってそれにしたって」
「良いじゃないか、暑くないんだから」
「…うん、別に良いんだけど」
そう言いつつ、まだ納得がいかない顔をしている有流を、誰かが呼んだ。
光刀が嫌な顔をするのが視界の端に見えたが、有流は呼ばれた方に振り向いた。
一人の青年が、走ってくるのが見える。
「太刀(たち)兄さん!どうしたの?こんな所へ」
「有流が……こっちに歩いていったっていうのを町の人に聞いて……」
太刀は息も切れ切れにそう言った。
「体力無いんだから、あまり無理しちゃ駄目よ」
クスクスと笑う有流だったが、太刀は半分泣きそうな顔だった。
「有流」
「なあに?」
「落ち着いて聞いてくれ。さっき連絡が来たんだけど、うちの弟が」
「光刀が?」
チラリと目を向けると、光刀は少し離れた所で無表情のまま二人の様子を黙って見ていた。
「弟が、光刀が、向こうで今日、息を引き取ったって」
「え?」
何を言われているのか理解できずに、有流は訊き返す。
「今、何て言ったの?」
「…だから、光刀が留学先で病に掛かってそのまま…」
また光刀の方を見たが、先ほどと同じようにしているだけだった。
「君のお母さんもうちへ来てる。だから君も来て欲しい」
「待って、太刀兄さん。でも…。ううん、待って」
有流は混乱しかかっている頭の中を整理した。
一つ一つ、今日の事を思い出す。
「…わかったわ、私も行きます。でも、もうしばらく待って。必ず行くから先に帰ってて」
「……ああ、待ってる。焦らないで良いから」
「うん、ありがとう」
太刀の背中が坂の向こうに消えるまで見送った後、振り返らないまま有流が言う。
「…どういう事?」
「……」
「アンタ、ここにいるけどホントはいないの?」
「……ああ」
思い返せば確かにおかしかったのだ。
突然この坂に彼が現れた事。
誰一人として彼に話しかけなかった事。
有流の家に入りたがらなかった事。
季節に合わない服を着ている事。
事情がわかってきた今なら、家の前で彼に対して感じた違和感にも簡単に気付けた。
「あんなに日差しが強かったのに、アンタだけ影が無かったのね」
――私にしか、見えてなかったんだ。
「ちゃんと話、聞かせてくれる?」
「……勿論だ」
意気揚々と飛び込んだ異国の地は、気候も食べ物も生活習慣も全く違う物だった。
そんなものは慣れで何とかなると思っていたが、そう甘いものではなかったらしい。
言葉にも戸惑いながらの不規則な生活で、元々そう強くもなかった光刀の体はすぐに悲鳴を上げた。
「そこでちゃんと、医者にでも見てもらえば良かったんだけど」
生来の医者嫌いと、万が一入院する事にでもなったらどうするのかという躊躇いが最悪の結果を招いてしまった。
「ホントに全然動けなくなっちゃって。最期の力を振り絞って、お前に手紙を書いてた」
書きたい事は山ほどあるはずのに、なかなか動かない手をもどかしく思い。
「せめてもう一度この町に戻れたら……と思っていたら、ここにいた」
切ない表情を浮かべる光刀に、有流がそっと手を伸ばす。
「駄目だ!触るな!」
その指先が光刀に触れたか触れないかの瞬間、大きな音と共に眩しい光が辺りを包んだ。
「……!!」
有流はそのあまりの眩しさに目を閉じる。
ようやく瞼の向こうが暗くなってきて、次に目を開けた時には光刀の姿は無く、代わりに手紙が舞っていた。
「…私が…私が触ったから…?」
呆然としながら呟く有流の耳に、優しい声が届く。
「気にするな。本当はもう二度と会えないはずだったんだから」
「でも、でも光刀!」
「声が届いて良かった。お前がちゃんと、俺を見つけてくれて良かった」
「これからだって見つけてあげるわよ!」
「駄目だ。もう、見つけちゃ駄目なんだ」
「どうして…」
「約束しよう。俺はもう二度と姿を見せないから、お前ももう二度と俺を探さない、と」
「酷いよ、そんなの酷いよ…」
有流は、ギュッと手紙を抱きしめながら座り込む。
光の直後はほのかに温かかった手紙が、だんだん冷たくなっていく。
そしてそれと共に、光刀の気配がどんどん消えていくのがわかる。
恐らく彼も、自分でそれがわかっているのだろう。
「…最期の言葉は決めてある」
その声も小さく小さくなっていって。
「それはお前の名前だよ。――元気でな、有流」
プツリと言葉が切れ、突然手紙が氷のように冷たくなって、その後、ゆっくり、ゆっくりと有流と同じ温かさになっていった。
気付いた時には、有流は自分でもビックリするほどの涙を流していた。
ようやく落ち着いた頃、そっと手紙を体から離して見てみると、文の最後が滲んでいる。
自分の涙でそうなってしまったのかと思ったが、どうやら違うらしい。
――光刀、アンタも泣いてたの?
『有流』
手紙の締めくくりの言葉もそれだったので、有流はもう一粒だけ涙をこぼした。